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Blog/2017-04-04

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貧しさという訓練

あれは、秋も深まる肌寒い頃だった。
瀬戸の島々は色づいたミカンでオレンジ色に染まっていた。
三原瀬戸周辺の島は「大長ミカン・高根ミカン・瀬戸田ミカン」と有名なミカン産地でもあって
島の掲示板には大長ミカン摘みのアルバイト募集が掲示されていた。

仕事の少ない島の生活では15日間程度の出稼ぎではあるが
娘たちはミカン収穫の出稼ぎに駆り出されて行く。
我家の長女もそれに違わずこの時期になると、ミカン農家へ泊り込みで出かけていった。

留守に残された私とコマ(小)姉ちゃんはまだ小学生で、中姉ちゃんが中学2年生であった。
私と長女との歳の差は14歳であったから、当時の長女は多分24歳の娘盛りであったと思う。
お嫁に欲しいとの話しは沢山有ったが、母の亡き後の姉は私達3人の幼い年齢では
婚期が来ても決して首を縦に振る事はしなかった。

支えの姉が留守になれば、秋の夜長は静かで寂しい。
100mも離れていない八幡宮さんの松の大木が浜風に揺られて
「ザワワ・ザワワ」と波の音のように聞こえてくる。
その音を聞いて私は「明日はお宮さんに松ボックリ拾いに行こう」と思った。
姉ちゃんが居ないから私が芋炊きの当番である。
炊き付けの松葉と松ボックリは、芋炊きの種火には欠かせない燃料であった。

その頃には我家の家族には猫のミーと、朝一番、目覚まし代わりのニワトリが3羽飼われていた。
炊けた芋に味噌汁を囲んだ茶の間には、20燭光の裸電球が丸テーブルに
3人の影を寂しく写していた。
姉妹の誰もが寂しいせいか、寡黙にして喋らない。
幼い私だけが天然ボケで、その日にあった友達との無駄話をしきりに喋っていたが
それも長くは続かなかった。

その時、玄関の方からガラガラと引き戸の開く音が聞こえた。
「オババンや!」「オババンや!」3人が一斉に立ち上がって玄関へ走る。
薄暗い電灯の明かりより、みんなの顔の方が明るく輝いた。 
私達を一番心配してくれるお婆さんが、本家の食事の後片づけを終えて尋ねてくれた。
本家とわが家の距離は遠くて、300m位は離れていたのであった。

おばあさんの手には握り飯と、沢庵があった。
そして、私達を喜ばそうと、いつも懐には大きな飴玉が用意されていた。
「オババン今日は泊まって行って」と、私はすねる。
それが叶わない事だとわかっていても、私はおばあさんに甘えたかった。
「今は辛いけど、この先その辛らさが必ず役に立つときが来るよ。この辛抱に負けたらあかん」
おばあさんはいつもその言葉を残して、また夜の道を帰っていくのであった。 

その時その時を一生懸命に感じながら生きていたその時代
それはそれで生きていくための貧乏と言う訓練であったのだと思う。
「可愛い子には旅をさせろ」私の両親は自分達の生命を引き換えに
私達に最大限の旅をさせたのである。
それは私達が余程可愛かったからだと、不幸を乗越えた先に思うことである。

10日が過ぎて、秋の夕暮れ時に長女の姉ちゃんが元気に帰ってきた。
甘い沢山のミカンを土産に、少しのバイト賃金を頂いて帰ってきた。
その日から又明るく楽しい姉妹の団欒がもどる。
兄は巾着船でサバ漁に励み、私達は姉のバイト料で食べて、皆と同じように学校に行ける。

「オババンありがとう」「あんちゃんありがとう」「姉ちゃんありがとう」
今はもう3人ともこの世には居なくなってしまったが
沢山の人にお世話になりながら、私は大きくなった。
今でも私の感謝は永遠に続いている。



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